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「自由」のありか
毎日を、今の場所で暮らして、特別に不自由である
とは感じない。
むしろ、不当に抑圧されている人などに比べたら、
恵まれている、といえる。
しかし、自分自身が、不自由でないこと=自由、
とは決していえない。
今日のニュースに、ミャンマーで、軍に射殺された
少女の記事が出ていた。
以前からデモに参加していて、警察官に、次回会ったら
殺す、と脅迫を受けていたという。
覚悟を決めた彼女は、遺書の入ったカードホルダー
を身につけていて、それが死後に発見された。

「自由が取り戻せるなら、たとえ死んでも幸せです」。
SNSの発達により、近年、国を超え、若者の間で政治意識
が高揚している。

台湾で、民主化運動を促進する季刊誌
『如水』と大学院生の江氏。
(朝日新聞の記事より)
“如水”という誌名は、水のごとく不定形に、しなやかに行動せよ! という
ブルース・リーの警句からきている。
日本で、戦後に大きなうねりとなった学生運動は、1980年
代にこの国が物質的に豊かになるのと反比例し、退潮して
いった。

機動隊と衝突の際、命を落とした18歳の京大生をめぐるドキュメンタリー。
現在、公開中。
しかし、自分自身が豊かであろうとなかろうと、他者のため
に捧げられる余地は、本来だれしも持っているのだ。
14歳の少女が求めた「自由」のありかとは?
自分が死んだのちに取り戻されるかもしれない「自由」は、
もはや自分自身が手にすることはできないが、命は、そこに
連なっていくのだ、と。