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ゼミを転々とする

少し前に、私の髪をカットしてくれている美容師さんが、

「最近、“化粧品ジプシー”で…」と言った。

大体の予想はついたが、やはり「肌に合う化粧品を探し、

A社、B社、C社と製品を渡り歩いている」という意味だった。


それに倣い、私は「ゼミジプシー」だった、と言いそうになり

つつ、“ジプシー”は差別的な響きを伴いもするので、平凡に

「ゼミを転々とした」と言おう。


仕事のため、自分自身の幅を広げたいと考え、修士課程に進学

した私は、とにかく学ばねばという気持ちが先行していたのと

常勤で仕事に追われていたことが災いし、テーマの設定に時間が

かかってしまった。


結論からいうと、先行研究がほとんどないテーマを選択した

ため、修士、博士を通し、指導してもらえる教員がおらず、自身の

専門とは異なる分野のゼミに、仮に置いてもらう形となったのである。


入学前に、一応のテーマを設定していても、学んでいくうちそれが

変わってくることは珍しくない(怖)。


学部よりも深く学ぶ修士、博士課程では、その深さゆえに「混乱」も

生じる。

一々動揺していては、やっていけないし、そのような通過儀礼によって

研究の「自律」が鍛えられることもあるのだが…


基本的に、専門の異なる担当教員が、厚意で受け入れてくれる場合、

ゼミ内では、肩身が狭くある一方で、細かいことも言われない。

換言すれば、その教員にとっては、徹底的に指導しなくても済むので、

負担は少ない。


ゼミの担当教員と、専門がぴったり合ったとき、長所として、こまやかに

指導してもらえることが想像されるが、時には、風通しの良い関係を築く

ことが難しくなるかもしれない。


その点、私は、放し飼い(!)のような状態だったので、気持ちだけは

楽だった。

そして、ゼミでの発表等も、最低限にしてもらえたので、論文執筆に集中

する時間があった(出席免除の雰囲気も…)のは、何よりありがたかった。


さらに、このゼミちょっと合わないな…と思ったとき、移動をしても後腐れ

なかった。

それにしても、同じゼミでずっと通すのが一般的なのに、私自身はいくつも

のゼミを転々としたものだ。


最後にたどり着いた? ゼミで、担当してくれた先生は、お心の広い方だった。

博論のアウトラインが完成し、一応は論文の体を成したにもかかわらず、細かい

点が自身で納得できなかった私は、提出を止めるなどと言って先生を困らせた。


にもかかわらず、先生は、「新しいことをしようとしているのだから」絶対に

提出しなければならない、とそのときばかりは厳しい態度で譲ってくれなかった。

さらに、もうレベルは充分満たしていると、Goサインを出してくれたのだ。


そうして、私は、最後のゼミから巣立った。



          1823年、出羽三山神社に奉納された算額      


      江戸時代には、「遊歴算家」と呼ばれる和算の専門家がいた。

      彼らは、地方に赴くと、一時的にその土地にとどまり、

      有用な実学としての和算を教授した。

      今のようなSNSのない時代、考案した問題や解法を絵馬にして

      神社に奉納し、それを見た専門家の他、愛好家も、難問解きに

      熱中したという。

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