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ハード・アカデミズムーー「知」の核となるものーー
直球すぎる問いだが、あらためて、大学、大学院は、いかに
あるべきか――?
先に結論を書けば、「ハード・アカデミズム」なしに、それは
存在しえない。
一見、ソフト・アカデミズムだけでも、アカデミズムは成立する
ように感じられる。
しかし、前者を下支えし、活性化するものこそ、ハード・アカデ
ミズムなのだ。
このような問題を、アカデミックな機関で、真っ向から議論した
経験自体ないことを、今さらながらいぶかしく思う。
長らく、もやもやしていたアカデミズムへの疑義に対し、
高山博氏の『ハード・アカデミズムの時代』は、示唆を与えて
くれた(すでに20年以上も前の著書だけれど…)。
あらためて説明すれば、ソフト・アカデミズムは、基本的に知の
伝承を目的としており、すでに誰かが作り出した知を、わかり
やすく効率的に伝えることを目指している。
対照的に、ハード・アカデミズムは、まだ誰にもなしえていない
「あたらしい知を創造する行為」といえる。
私自身、大学までの勉強が、おもしろく感じられなかったのに、
大学院に入ってから、世界が変わったように能動的に研究に取り
組めたのは、上述した二つのアカデミズムとの関わりがある、と
考えられる。
大学はソフト・アカデミズムの比重が高く、大学院は、ハード・
アカデミズムの比重が高い、とは語弊があるかもしれないが、
おおまかな把握としては妥当だ。
どの方角から攻められてもびくともしない、100%破綻のない理論
を、一学生が、いきなり生み出せるはずもない。
だが、しかし、多少のほころびはあっても、他者の見落としてきた
テーマを何とか理論化したとき、高い称賛が与えられるものだ。
たとえ地位や名声に、直接かかわるものでなくとも。
否、功利的な何かを最終目的とするのではないからこそ、ハード・
アカデミズムと関わることには、他では得難いよろこびが伴う。
そして、それこそが、教員、学生などといった肩書きを超え、
一学徒として「研究に資する」ことなのだろう。

アルベルティ「サンタマリアノヴェッラ大聖堂」