- 日本語空間
不可視の領域から
先週は、日本各地で大学の卒業式がおこなわれており、
人数制限をしつつも、多くの学校が対面形式を用いて
いるようすがうかがえた。
いくつかの動画を見たが、卒業生の一部がユニークな
仮装をこらす一方で、含蓄のある総長のことばが好対照
を成す京都大学―創立125周年を迎えるという―の
卒業式が印象に残った。
総長は、オンライン授業が増え、互いがじかに接する機会
が減ったことを挙げ、現在のようなときにこそ他者への
sympathyと共に、empathyを欠かさず、これからも生きて
いってほしいと語っていた。
sympathyは、すでにカタカナ語で「シンパシー」として
日本語に定着している。
empathyは、カタカナ語でエンパシーと書く場合もあるが、
シンパシーほどには定着していない。
前者が、他人と感情を共有することを指すのに対し、
後者は、自身と同一視せず他者の気持ちをくむことを指す。
欧米のような個人主義が根づいていない日本では、
同調圧力がつよいなどともいわれるが、非対面でない
言語を介したやりとりが増えた今日だからこそ、
自身と異なる存在に思いを馳せることが、共生には
不可欠といえよう。
そこで、引き合いに出されていたのが、マイケル・
ポランニー(1891-1976)の唱えた「暗黙知」だ。
世界のあらゆる事象を、言語で完全に表現することは
まず不可能で、そのような「形式知」に対するものとして、
暗黙知はある。
暗黙知は、他者とのコミュニケーションにとどまらず、
「創発」のようなシステムの形成にも関わっている。
換言すれば、創造的な営み(当然「研究」も含まれる)には
欠かせないものなのである。
ポランニーは、近代という時代に、創造的な研究を展開した。
私自身、当該の時代を研究の対象としているのは、それが
有する可能性と限界に関心をひかれているためだ。
近代における科学と芸術、宗教の交わる場を渉猟していて、
何人かの人物にたどり着いた。
先日、街を歩いていて、そのなかの一人ヒルマ・アフ・ クリント(1862-1944)のドキュメンタリー映画が、まもなく
公開されることをポスターで知った。

すでに記述された「歴史」―諸々の偶然性により、 いったん定められた-は、いくらでも書き換えられる 可能性がある。
クリントにとどまらず、権威をまとった大家の陰に
埋もれた名もなき人物は、無数に存在するだろう。
彼女の浮上は、過去からの問いかけのようにも感じ られる。 むしろ、不可視の領域に目をこらす姿勢が、今を生きる われわれすべてに求められているのではないだろうか?

スウェーデン王立美術院で美術を学び、卒業後は当時の
女性としては珍しく職業画家として伝統的な絵を描き、
成功を収める一方、霊的な精神世界に関心を抱いた。
妹を亡くしたことがきっかけで、神秘主義に傾倒し、
独自の抽象表現を模索しはじめる。
同じ思想の女性芸術家たちと「5人」を結成し、
活動を展開した。
だが、彼女は、それらの作品を公表せず、死後20年は
世に出さないよう言い残している。