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共有される「知」の未来へ

今週から、来春の大学院入学を目指す社会人の方の指導が

始まったため、私も、当該の専門分野に目を通し、先行研究

を洗い出している。


1回目の授業では、現職の内容と経歴などを聞いたが、

キャリアアップのための学びに対する情熱に圧倒され、非常に

よろこばしく感じた。


社会人学生の場合、学校から遠ざかっているため、専門性は

有していても、勉強の勘がやや減じていることがあるが、

それは致命的な欠点などではない。


むしろ、経験値に基づき、語ることができるので、机上の

空論でなく、リアルな話し合いをおこなえる。


この方の他にも、今年サポートした大学院修士課程の社会人

のなかには、せっかくなのだから博士課程まで進みたいと

いう方がいて、感動させられた。


留学生の大学・大学院入学指導をしていると、自分自身と

まったく同じ専攻の学習者に出会うことはほとんどない。

私自身は、純実学の専攻ではないが、どちらかといえば、

学習者の専攻は実学が多い。


それでも、依頼されれば分野に関わらず引き受けるのは、

学際性の強みと平生からの勉強に培われた矜持による。


「教える」ことは、「教わる」ことだと、常に感じてきたが、

私は、実学、非実学のいずれが優位とも思わないし、どちら

にも敬意を抱いている。


コロナ禍は、オンラインライフへの依存度を増させ、社会の

「分断」と「対立」が深刻になっていると、昨今よく指摘される。

卑近な例では、男性対女性、若者対高齢者、右派対左派等々。


前々回のブログで、大学教員によるビジネス業界に従事する

人間への軽侮に言及したが、これなども非実学対実学の分断と

いえよう(実学の側では気にしていないかもしれないが)。


真鍋淑郎さんが、アメリカに帰化した件を取り上げた先日の

NHKニュースで言及されたごとく、日本の学術機関は、政府組織

であるのと対照的に、イギリスの王立協会や、アメリカ科学

アカデミーなどは、民間組織だ。


日本では、「素人(しろうと)」と同義のように見なされている

「アマチュア」は、欧米では、科学の発展にはなくてはならない

存在だった。


ロラン・バルトが指摘したごとく、彼らは、肩書や報酬といった

見返りを求めない「対象への愛情」に突き動かされ、探求をおこなう

者たちなのである。


先日、私が来春発表をおこなうこととなっている研究会に参加させて

もらったが、そこは学会でなく研究会というだけあり、大学の教員

や学生だけでなく、在野の研究者も擁する集まりだった。


むしろ素朴な雰囲気があり、一方で、皆さんが前のめりになり、熱心に

ペンを動かし、質疑をおこなっていたのには感激した。


また、私自身が、博論の資料集めをするなか、アカデミックな機関には

属さず、独自に研究をおこなう郷土史家にも知り合った。

彼らの書いたものが、素人レベルだなどとはいえず、むしろ自身が

知らなかった事実を教えられたこともある。


研究の世界は、研究者個人で成り立っているわけではないのは無論の

こと、アカデミズムの外部にも、高度な研究の所在はありえる。

むしろ、地位や肩書を超え、虚心坦懐(きょしんたんかい)で交流する

なかから、あらたな「知」は創造され、未来へと共有されていくに相違ない。





                             2021.12.19


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出会いがあれば別れがある。 それは、理(ことわり)なのに、 一抹の寂しさを拭うことができない。 『日本語空間』がスタートしてから、 今までいちばん長く(2年半!)学習 を続けた方が、今月中旬に国へ帰る。 毎週日曜日の晩、PCの画面で顔を 合わせながら、実際にお会いする機会 は一度もなかった。 それでも、何の問題もなく、最後まで 円滑に授業を進められたのは何よりだ。 帰国後は、日本語を使う頻度が減る