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トランスディシプリナリティの実践 

穏やかな秋晴れの日が続く。

小春日和(こはるびより)ということばを、最近、ブログで

取り上げた。

それを、カタカナ語では「インディアン・サマー」と呼ぶ。

どちらも趣(おもむき)のある表現だ。


さて、昨日、実学と非実学について少し触れた。

正直に告白すれば、私自身、実学・非実学 や、文系・理系の

区分を、大学院で学ぶようになるまでは自明のように捉えていた。


しかし、文系ベースであっても、研究レベルで理論的思考力を

鍛え、抽象思考を磨くと、理系脳に近づいていくことに気づいた。


そうであるからこそ、早い時期に苦手意識の壁をつくり、理数系

の科目ときっちり向かい合うことから、逃れようとしていた態度

を猛省したのだが・・・


たとえば、近年、個人的な関心に科学と芸術の接点がある。

よく考えれば、一見かけ離れているような両者は、むしろ確実

に、近接しているといえる。


そう、かのフリーマン・ダイソンも、

「科学はその日常的実践において、哲学よりもはるかに芸術に近い」

と指摘しているくらいだ。


元々、あらゆる学問の分野はつながっていたのを、近代に至る過程で

切り離されてしまった!

それにより、得られた成果もあろうが、失われた可能性も大なのである。


リン・ハントが、自著で指摘していたのは、研究を一つの分野だけで

完結させようとする派と、いわば失われた可能性を求め、研究分野の

横断・連結を厭わない派がいるという現状、だったと記憶している。


私が、後者に属するのは、大学院に入ったそもそもの理由が、留学生

の入試指導に際し、さまざまな専攻分野にひとりで対応しなければ

ならなかった経験から、自身の幅を広げねばと痛感したことによる。


そこでは、元々○○専攻でないから、そんな小論文のテーマは

「わかりません」などといえるはずがなかったし、彼らから頼られて

いる以上、できることはすべておこない、結果を出すしかなかった。


思えば、ずいぶんと遠くまで来てしまった!


でも、だからこそ、これは私には「関係ない」とか「わかりっこない」

とか簡単にはいいたくない。


事実、自身にまったく関係ない事象など、何一つ世界には存在しないし、

わからなければ学ぶべし!

そうして、あたらしい知の扉が開かれるのは、よろこびでしかないのだから。













  エティエンヌ・ジュール=マレー

      「気流の観測」

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