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対象との距離

何かを論じるとき、その対象との距離を意識する。

先に結論をいってしまえば、距離が近すぎると、「近視眼的」になり、

かえって大切なことを見落とすのではないかという警戒心が働くのだ。


日曜日のブログで、日本のポピュラー音楽について書いた。

さほど重い内容でもないのに、実は書きづらく、何度か修正をした。


日本のバンド文化が盛んであるというのは事実で、学生時代、私自身

の周囲にもバンド活動をおこなう知人が何人かいた。

それで、特定のバンドに入れ込むわけでなくとも、実情は知っている。


しかし、日本人が、日本について、それも現在進行形の事象について

書くというのは、距離が近すぎて何ともぎこちない。


加えて、学術論文に慣れているせいか、ソフトな内容や、自由度の高い

文章を書く機会には、かえって立ち止まってしまう。


私は、研究の対象を近代に定めている。

日本の近代の開始は1868年なので、一応150年ほどの時間が経過して

いるため、戦後などよりは対象化がしやすい。

換言すれば、当該の時代を、少し距離をおいて眺められるのである。


メインに扱っているのは、日本の事象であるが、日本人だからと

いって「わかったつもりになる」ことをみずから戒めている。


博士課程在籍中、他ゼミの先生と話したとき、日本人が日本のこと

を扱うため、あえてテーマの設定等で難易度を上げていると告げた

ところ、「それは基本的に正しいですね」といってもらえた。


少しまえに、『現代思想』界隈で、マーク・フィッシャー氏の

『資本主義リアリズム』(2018)が評判になっていた。

それで、図書館で同書を借りようとしたところ、まだ入って

いなかったので、『わが人生の幽霊たち―うつ病、憑在論、

失われた未来』(2019)の方を借りた。


(ちなみに、私の前には、3人予約が入っていた。昨日、再読しよう

としたら、予約が1人入っていたのだった)。


1968年生まれで、ドナルド・トランプ氏が大統領に当選した2017年、

みずから命を絶ったフィッシャー氏は、イギリスの評論家。

PhD取得の後、ゴールド・スミスカレッジで教鞭を取っていた。


『わが人生の幽霊たち―うつ病、憑在論、失われた未来』は、

ポピュラー音楽、TV、映画、小説(主として欧米)に関するエッセー。


むずかしいな、と感じたのは、ほぼ全編を通じ、彼自身の多幸感に

みちた黄金時代が、ノスタルジーとともに呼び返されていること。

つまり、自身と対象のあいだに距離がなく、両者はほぼ一体となって

いる。


それゆえ、巷間の高評価とは異なり、冷静で普遍性のある批評とは

みとめられなかった。


むしろ、フィッシャー氏は、晩年に、パースペクティブをせばめ、

世界を小さく切り取り過ぎてしまったのではないか? という想い

が湧いた。


換言すれば、他者が不在になってしまったのではないか、と。

かくも、対象との距離の取り方はむずかしい。







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