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師のうしろ姿

クリスマス前の先週、教会に師を訪ねた。

当日は、聖書に関する勉強会が開かれており、会えることが

わかっていた。


私は、信者でも教会員でもないが、今年最後のご挨拶に伺った

のである。


以前も書いたが、師といっても、自身が所属した大学や大学院内

で出会ったのではなく、学外で、偶然生じた縁だ。


「水のごとく淡き交わり」ということばがあるが、そのように

近すぎない関係は、かえって維持しやすいようにも感じる。


コロナが発生する2年前、師に招かれ、クリスマス礼拝に参加した。

礼拝後、一同で教会の前に並び、道行く人々に向かい、讃美歌を

歌った。


今では、そんな普通のことが、どれほど貴重だったかと思える。


ここ2年ほどは、毎週の礼拝も、地区ごとに分かれ、しばらくは

讃美歌も歌えなかったようで、クリスマス礼拝も、抽選で当たった

人だけが参加できると聞いた。


街中にある大きな教会なので、コロナ禍以前には、多くの信者が

つどい、活気に満ちあふれていたものだ。

初めて教会に伺ったとき、会堂を案内し、その歴史を語って

くださった師は、堂々として誇らしく見えた。


先日、教会に入っていくと、会堂の扉の隙間から師のうしろ姿が

目に入った。

近づこうとしたが、一心に何かをしているので、しばらくは声を

かけるのをためらっていた。


思い切って中に入ると、師は、木製の席が壊れているのを、

ボンド片手に修繕していたのだった。

「ここの具合がどうも悪くてね」と、椅子をぽんぽんと叩き、腰を かがめながら。


すでに定年退職した後、現在は特任教授として、いくつかの大学で

教鞭を取っている師である。

しかし、教会の内部では、そのようなようすを見せず、「さん」

づけで呼ばれることを好み、清掃も修繕も進んでおこなう。


大学時代、受洗した師にとって、青春時代から長い年月を過ごした

教会は、それ自体が「家」なのだろう。


勉強会がはじまる前に、私は退出したが、教会との距離には、

お互い差がありつつも、それを通じどこかで結ばれている関係が

続くことを、あらためて願ったのだった。






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