- 日本語空間
転変、そして転変
今日も寄稿の文章を書きながら、単に自分自身の「専門」
に閉じこもり、超越的な態度を取るわけにもいかないの
ではないか? と焦りにも似た思いが胸をよぎった。
終息しないパンデミック、外国での戦争、国内でのテロ
といった出来事を目の当たりにして――
蓮実重彦(はすみしげひこ)は、知る人ぞ知るフランス
文学者であり、映画評論家だ。
少し前には、小説『伯爵夫人』で、三島由紀夫賞を受賞
している。
大学院に在籍していたとき、彼の著書『反=日本語論』を
読んだ。
内容には、それなりに納得した記憶があるが、よく覚えて
いないくらいだから、大きな示唆を得たわけではなかった
のだろう。
最近、言説のはびこりを再考していて、蓮実著『物語批判
序説』を読んだ。
文章自体は、思っていたよりも簡潔でスイスイ読めたが、
もって回った調子の裏に想像力を巡らせないと、何が
言いたいのかが伝わらないものだった。
学術研究ではないと、本人がことわっているのだから、
行間を読んでくださいとでもいうような姿勢を、不正確で
曖昧と批判するのは当たらないのだろう。
文学を論じつつ、社会制度やそこに埋め込まれた人間の
ありようを、批判するという自家籠中の手法というべきか。
昨日のテロルから、なぜかフレデリック・ジェイムソン
の『政治的無意識』を連想していた。
文学に限らないことだが、テクストには、共同体の象徴的
思考が書き込まれている。
事件後に発された政治家のコメント「言論の封殺に屈すべき
ではない」が、題目にならないように。
それを口にしたことで、何か内容のあることを言ったと
錯覚せず、具体的にどういうことなのか説明できなくては
ならない。
さて、明日は夕方の授業の後、投票に行こう。
