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教会への道

ここ港町では、近代の息吹(いぶ)きを感じさせる

建造物が、そこかしこに見受けられます。


なかでも臨海地域には、種々(しゅじゅ)のキリスト

教会が散在しています。


壮麗(そうれい)な大教会は、すばらしい! としか

いいようがありません。

しかし私は、それにもまして、裏通りにひっそりと

佇(たたず)む簡素な教会に、心惹(こころひ)かれ

ます。


私が、その教会の前を偶然通りかかったのは、博士

論文執筆中のときでした。


建物は、大風(おおかぜ)が吹いたら飛んでしまい

そうな造りで、装飾も極力(きょくりょく)排して

ありました。

ただ、通りに向かったウィンドーに、大判(おおばん)

の聖書が開かれていたのです。


それで何気なく、その文を読むようになりました。


博士論文の執筆は、かなり順調に進んでいました。

しかし、完成を控えながら、あと一息の「一息」が

無限の時間のように感じられていたのです。


担当教員は、Goサインを出してくれたのに、納得

がいかず、まだまだと引き留めていたのは自分自身

でした。


ある日、教会のウィンドーのなかに『マタイによる

福音書』が開かれていました。

見開きの2ページでしたが、そのなかの一節

「狭き門より入れ」

に目が留まり、動けなくなりました。


すでに夜になっており、人通りのない暗闇のなか、

そのページにだけ、光が当たっていたのでした。

















   ジョット・ディ・ボンドーネ

  『父と決別する聖フランチェスコ』

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