- 日本語空間
書くことにつく前に
絶対的な、たったひとつの自己からなる人間は、存在しません。
論文レベルでは、「私」でなく、「われわれ」を主語にする
所以(ゆえん)です。
それゆえ、書くことの極意(ごくい)は、書くことと読むこと
を一体のものとして考えること。
当然ながら、読み書きの行為は、どちらかだけでは、成り立ち
ません。
すなわち、論述の訓練と並行して、読書をおこなうことは、
必須なのです。
つい先日、個人でもできる論述上達の方法はないか? と
質問を受けました。
たとえば、アカデミックジャパニーズに特化した留学生向け
の本は、何冊か出ていて、私も過去にそれを使い、指導を
おこなった経験があります。
→ただし、タイプの異なる留学生たちのクラスレッスン
においてでした。
作文の経験も少なく、作文と論文の相違点がわからない段階
であれば、そのようなテキストを、いったん最後まで終わら
せるのも、一つの方法です。
しかし、作文のように、気ままに―主観的に―思ったことを
綴っていく―書き足していく―のとは異なり、論述では、
「論拠」を示さなければなりません。
その点を踏まえれば、やはりハウツー本だけで、文章が上達
することは不可能だといえます。
そこで、先日お話しした「リファレンス」が不可欠になります。
いわゆる「参考文献」として、レポートや論文の最後に示す
ものだけでなく、広義で、書く行為の参照となるものです。
根気強く「多読」を重ねていくと、あることがらについて書く
とき、別な場で読んだ文章の一節が、参照されることに気づき
ます。
また、つよく意識しなくとも、読書によって身についたことば
が、適切に使いこなせていくのです。

フランス歴史学のアナール学派に属する
ロジェ・シャルチエは、読書史の研究で
有名ですね。
私は、この中の1章で語られたエピソード
-野生児が、放浪生活を送りながら、独学
で「知」を極めていく話、が印象的でした。
彼を導いたものこそ、学校や生身の教師で
はなく、本だったのです。