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白いタブレットー自由な「知」のよろこびー

一般的に、大学までの学びを「勉強」と称するのに対し、

大学院以上では、それを「研究」と称します。


比較をすると、後者の難易度に目が行きがちですが、

それ以上の特権(!)に、知の「自由度」が挙げられます。

とりわけ、研究という営みにおいて、文系、理系どの

分野に身を置こうとも、テーマの設定は、個人の自由に

委ねられています。

すばらしいと思いませんか?


大学時代まで、勉強熱心とはいえなかった私が、意外にも

大学院で研究のたのしさに目覚めたのは、そこに他ならぬ

知的な自由が存在したからだと断言できます。


無論、自由というのは、好き勝手の意味ではないので、

学術的な作法を踏まえるのは基本ですが、その大枠のなかで

自由に思考することは、それ以前知らなかった「快」を

もたらしたのでした――


今週、ひとりの学習者の方の研究計画書が完成しました。

スタート時は、どこに着地するかわかりませんでしたが、

手応えはあったので、良いものになると信じていました。


結果として、予想に違わず「濃い」内容で、何より新規性を

有するテーマを設定できたことに、私自身、心から満足して

います。


日本語で長い文章を書いたことがないので自信がない、と

いいつつも、雄弁に意思を語る方だったので、連携が非常に

うまくいきました。

授業を終え、

「最初は簡単に考えていたが、もっと大変なものだと知った」、

「ことばを交わしているうちに、自分が何を研究したいのか

がわかった」

とのコメントをもらいました。


振り返ると、そこにたどり着くまで、自由に手探りし、問い

を繰り返しながら、テーマを立てていくのは、それ自体非常に

クリエイティブな営みだったといえます。


少し前に読んだ19世紀イギリスの小説に、自己との対話を

意識し日記をつけている主人公が、短い生涯の最期に、いわば

聖なる御手(人智を超えた)が、何を書き込もうとも任せられる

“白いタブレット(書札)”を整えるようすが描写されており、

胸をうたれました。

それは、知的なものに対する至高な謙虚さのあらわれなのかも しれませんが、そこまでいかずとも、清められたタブレットの 上で、自律的な知を究められれば、何より幸いなことではない でしょうか?


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出会いがあれば別れがある。 それは、理(ことわり)なのに、 一抹の寂しさを拭うことができない。 『日本語空間』がスタートしてから、 今までいちばん長く(2年半!)学習 を続けた方が、今月中旬に国へ帰る。 毎週日曜日の晩、PCの画面で顔を 合わせながら、実際にお会いする機会 は一度もなかった。 それでも、何の問題もなく、最後まで 円滑に授業を進められたのは何よりだ。 帰国後は、日本語を使う頻度が減る