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研究の自律?
以前に、論文そのものの価値として「新規性」を挙げた。 新規性が不在なら、それは、学術論文とは認められない。
この点を看過したまま、修士論文の提出直前に、概要を提示 した際、「新規性がない」と指摘され、呆然とした、という 日本人学生の記事を読んだことがある。
さて、これは、果たしてどこに問題の所在があるだろうか?
研究の自律が求められる大学院の課程では、学部時代のように
わからないことがあるからといって、すぐに質問を発すると
いう態度は、おのずから控えられる。
確かに、疑問は、徹底的に洗い出し、ひとりで対応できる部分
は、自身で120%解決すること。
その困難さの中からも、自律の力は養われる。
だが、その「自律」を盾に、別ないいかたをすれば「研究は
ひとりでするもの」(!)などという紋切り型を、振りかざし、
なかば意図的に、指導を放棄する教員も存在する。
外部の人間からすれば、信じがたいことかもしれないが、
そこに身を置いた人間としては、事実だといいきれる。
原因を大別すると、
1仕事を抱えすぎていて、指導をする余裕がない。 2指導能力そのものがない。 となる。
しかし、その言い訳は、どちらも通用しない。
1に関しては、仕事を整理し、優先順位をつけ、雑事などより
学生の指導を優先すべき。
2に関しては、大学院の場合、学生と教員の専門がぴったり
重ならないことがめずらしくない。
その場合、不足している部分があれば、教員が学生に寄り添う
べく猛勉強するなり、他大学院のより適性がある教員に推薦状を
書き、ゼミに参加させてもらえるよう取り計らうなり、 してあげられることは多々ある。
冒頭の学生は、修士課程で修了しようとしていたのか、博士課程
まで進もうとしていたのかは、書いていなかった。
後者であれば、新規性のような学術論文における要中の要が、抜け
落ちていることは、より手痛いミスとなる。
これまでの経験から、博士課程まで進む学生は、日本人、外国人を
問わず、内省的で物静かな方が多いように見受ける。
アカデミズムの中で、一生を過ごすようになるのであれば、教員と
の関係も考えざるをえず、言動にも慎重になるのは自然だ。
だが、そうであるからこそ、途中で感じた違和や、不審な点は、
貴重な時間を無駄にしないためにも、放置しないでほしい。
大切なのは、テーマを完遂させること!
世俗の些事に、足を引っ張られぬよう、タフさを身につけること。
怖がる必要はない!
少なくない人間が、経験する事態であり、そこを潜り抜けたとき、
おのずと「自律」は身につき、一研究者として「大局」へと向かって
いけるだろう。

アルド・ロッシ「世界劇場」(1979)