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精神的糧(せいしんてきかて)としてのリベラル・アーツ
現前するコロナ以前にも、長い歴史のなかで、人類は
種類の異なるあまたの試練に直面し、それを乗り越えて
きた。
「現在」に縛られ、身動きが取れなくならないよう、
そこからの脱出を図るためにも、当該の「叡智(えいち)」
に学ぶことは肝要だ。
とりわけ、大加速時代にあり、世界は、瞬時に移ろって
やまない。
それにつられるごとく、「陰謀論」や甘言(かんげん)が
はびこり、人心を惑わせる今日だからこそ。
そこで、リベラル・アーツである。
とりわけ、先日ブログでも言及した非実学系、なかでも人文
科学において、リベラル・アーツ的な学びは欠かせない。
専門に軸足を据えながらも、近接する分野に、いかに目配りを
するかは、研究の質に関わってくるからだ。
では、実学系は、リベラル・アーツなど必要ないかといえば、
変化の速い社会を扱うからこそ、多角的な視点を有するという
意味でも、たいせつな素養だといえる。
私自身、人文科学と社会科学にまたがる分野を専門としており、
仕事では、実学、非実学どちらの専門にも対応をするが、
その際、リベラル・アーツ的素養が、非常に役立っている。
むしろ、それなしで、現在の仕事は成立しないといえるのだ。
だが、リベラル・アーツは、それ単独で役に立つものではなく、
数値などに反映され、すぐに結果が出るものでもない ――
昨年、『人新世の「資本論」』という本が、本屋大賞を受賞し、
40万部以上の売り上げを記録した。
出版不況の時代にあり、人文科学の分野の本がこれほど売れる
ことには、うれしい驚きを感じたものだ。
著者の斎藤幸平氏(大阪市立大学大学院経済学研究科准教授)は、 現今の 1.刹那的、2.利己的、3.経済至上的あり方―俗にいう “今だけ” “自分だけ” “金だけ”―に、問いを投げかける。
かかる時節に、立ち止まって考えるため、読書のようにリベラル・
アーツ的素養を強化する行為が今こそ必要だ、とは氏自身の言だ。
しかし、いったん物質的な潤沢を手に入れたあと、「脱成長」の
ことばに諸手を挙げることは可能か?
思うに、この本を手に取ったひとのほとんどは、そうではなく、
保留の姿勢を取りながら(あるいは一抹の罪悪感を抱きつつ)、
なお、考えていかねばならぬ問題を、己の心に問うただろう。
右派か左派か、経済か環境かといった二項対立の時代を経て、
すでに「多様性」以降にある今日、リベラル・アーツは、
かけ声としての「持続可能」ではなく、まずは、人類を
「延命」させる可能性へと導いてくれるに相違ない。

レトロや反動からなどではなく、 デジタルやテクノロジーを過信せず、 それとの距離をはかりたいと願う… あたりまえ?