たとえば、前衛的な画家なら、まるでオートマティズム(Automatism)の
ようにして、一気に描き上げた絵を、手直しすることはない。
あるいは、バンドのミュージシャンが、一発録(いっぱつど)りをして、
編集しない音源を、あえてリリースすることもある。
理由は、その勢(いきお)いだったり、初期衝動(しょきしょうどう)
だったり、「型にはまっていない」何かが、「貴(とうと)い」と考えるから。
一方で、昨日の最後にお話しした「推敲(すいこう)」の故事のように、
詩人や小説家が、何度も文章を練り直して、作品の完成度を上げていくのは、
古今東西(ここんとうざい)の習いである。
上述したのは、いわゆる芸術作品を創造する過程です。
翻(ひるがえ)って考えれば、論述に、入念な推敲が必要なことが、よく
理解されるでしょう。
つまり、いったん書き上げた文章を、ろくに見直すこともなく提出するなどは、
外側からは「勢い」のような行為に映ります。
一方で、時間をかけて文章を練り上げていくことは、基本的に重要ですが、
論述に求められているのは、華麗なレトリックではありません。
換言すれば、文章表現には、「内容」に見合った、「内容」を活かす形式が
存在するということです。
文理の専門を問わず、論理的一貫性は無論、文章が端正であること、格調がある
ことも、当然、評価に加味されます。
特に皆さんは、日本語という外国語で綴るのですから、自分自身が完成させた
文章には、思い入れもひとしおではないでしょうか。
その文章を、よりよく見せるために、推敲の量と質は、無視できないものなのです。
Lindenmeier, L-System
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