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文化的コンテクストの内と外

今秋、真鍋淑郎氏が、ノーベル物理学賞を受賞し、わが事のように

感激した日本人は、真鍋氏が、アメリカ国籍を取得した理由を知り、

一気に落胆したのではないだろうか?


昨日のNHKオンラインニュースは、あらためてこの件を取り上げている。


1958年、東京大学大学院で博士の学位を得た真鍋氏は、すぐに渡米し、

1975年には、アメリカ国籍を取得。

1997年に一時帰国し、海洋科学技術センターで研究に取り組んだが、

4年後にはアメリカに戻り、以後、日本を研究拠点にすることはなかった。


真鍋氏は、ノーベル賞受賞後のインタビューで、終始笑顔で、ユーモア

をまじえつつ、日本を離れた理由を明快に語った。


「日本では、常に互いの心をわずらわせまいと配慮し、とてもバランス

の取れた関係を築いています。

日本人が“Yes”というとき、それは“Yes”を意味するとは限らず、

実は“No”かもしれません。

なぜなら人の気持ちを傷つけたり、気分を害したりしたくないからです。

私は、人の気持ちを気にすることが得意ではないですが、アメリカでは

その必要がありません。

私は、まわりと協調して生きることができないのです」。


母国への配慮もあってか、日本に対する評価は、かなりマイルドな表現に

なっており、自分自身を、むしろ問題のある性格のように表現している。

だが、アメリカ人同僚が語る真鍋氏は、研究熱心だが「非常に謙虚」なので、

「周囲に敵がいない」というものだった!


“Yes”が“No”の意味かもしれないというたとえは、まさに日本語における

コンテクストの問題に関わっている。

少し前にブログで「持って回った言い方」について書いたが、そのように

遠回しな表現も、相手が当然理解できるという前提のもとにおこなわれて

いるのである。

曖昧で婉曲な表現は、日本人同士の「内輪(うちわ)」の会話なら、親しさを 確認し、共有するようなコミュニケーションとして機能するだろう。

だが、対照的に、学術やビジネスの場面で、それも外国人が同席する場面 で無意識に濫用されれば、不適切である以上に、議論の進展は不可能だ。 それは、こちらが「1」を語ったら「10」理解できるだろう、という無言の 強制に近い。

私自身、仕事上、多くの外国人と接する過程で、日本語のコンテクストの 問題を痛感させられた。 日本が、今日的国際性を保持したいのであれば、個人が「ウチ」と「ソト」 の領域に応じ、表現を変えるのは、必要最低限の事項であると、自戒を こめつつ記したい。

      「ヒストリア宇部」        撮影・在本彌生

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