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言説か現実か
昨日ニュースを見ていたら、国際情勢の解説者が、念を押すように
「いいですか。まず、いきなり具体的な状況を押さえるのでなく、
われわれは『言説』に警戒しなければならない、ということです」と
ことばを区切りながら述べた。
つまり、ある国家の代表が「○○が○○を迫害している」、
「だから解決のために兵を派遣せねばならない」といったときの
前言は、現実ではなく「言説」だというのである。
コロナ禍以降、不安定な人心を反映するかのごとく、以前にも増し
「陰謀論」や流言がたちまち拡散される状況にあり、この解説者は、
実に適切な指摘をおこなうものだと感心した――
今日、ある学会の勉強会に参加し、そこでも時事との関連で話題が
「言説」に及んだ。
過去の資料の中にも、ほぼ客観的事実とみなしていいものと、言説の
入り混じったものは、常に存在する。
ことばという不透明なツールを用い、研究を、否、社会生活の全般
を営む以上、われわれは、完全に言説の外側に立つことは不可能で
ある、ともいえる。
だが、そうであるからこそ、不可能を理由に思考停止してしまうので
なく、ベストではなくともベターな途を、間断なく模索していかねば
ならない。
勉強会の後のお茶の時間(画面越しに、各自がティーカップを片手に)、
私は師に、オンライン形式が浸透したことでかえって社会に談論風発の
機運が高まり、意見の相互交換が、かまえずにおこなえるようになった
のは良い変化だと思う、と告げた。
師は、「ほう」と目を丸くしながら、私は不便なことが多いと感じて
いたが、そういわれてみるとそうかもしれないね、と鷹揚(おうよう)
にうなずいた。
そう、政治、経済、軍事等における既成の事物のみが、世界の流れを
変えるのでなく、アノニムな個々人の言論の力が、未来をつくるのだ
と信じたい。
とりわけ、現在のような危機にあっては…!
