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誠実であること、寛容であること

修士課程在籍中、Richard Rortyの“Contingency, Irony and Solidarity”

を読んだ。 学部時代は、のちに大学院に進学するとは考えておらず、第二外国語の勉強 をさほど熱心におこなわなかったため、せめて英語の文献は、できるだけ

参照しなければという焦りが、余裕のない大学院時代にはあった。


しかし、多読を意識し、ガンガン(?)進めていきたい身にとって、日本語に

比し、読むスピードの落ちる英語では、早く内容を把握したいという想いに

駆られ、ストレスに苛まれる(自業自得なのだが…)。


そのような状況で、当該の書籍は、読み始めた途端、内容に引かれ、むしろ

ワクワクしながら読み進めていくことができたのである。

何というか、行間から著者の顔がのぞくようで、印象的なフレーズを、反芻

するように音読していた。


図書館で、何度も借りた本で、手元にはない。

ただ、題名に含まれるcontingencyと、扉に書かれていた(と記憶している) toleranceという語には、今でも、しばしば立ち返る。


やや牽強付会になるかもしれないが、contingencyは、どこに軸足を据え、

どのようなテーマを扱うとしても、研究の基に置かねばならない「関係性」

を意識させるものとして。


toleranceは、たとえひとりで研究行為に就くとしても、己を取り囲む学界

は無論、それを超えた社会全体のなかで、当該の行為を営むのだという

自覚を胸に刻むものとして…


2月の極寒の晩、社会人学生として、勤務を終えたのち、ダッシュする

ように駆け込んだ博士課程・二次試験の会場。

初めて踏む地で、初めてお会いした3人の試験官の先生は、予想に反し、

穏やかで優しかった。

口述試験の最中、入学が叶えば入ろうとしていたゼミの先生は、意外な ことを私におっしゃった。

「入学したら、1人で勉強できますか?」

そして、学外で使用が可能な研究の施設を、丁寧に紹介してくださった。

入学後に、その先生とお話したとき、私の提出した論文に、自分が一番高い 点数をつけた、粗い部分はあるが、斬新なことをやろうとしているので、 研究を続けてほしいが、自分自身は指導し切る力がない、と誠実に明かして

くださった。

「うちには、籍を置くだけで、明日からでも他大学院のゼミに参加させて

もらいなさい」。

「私の大学院時代の同級生に、推薦状を書きます」。

だが、その先生が、やがて定年退職され、行き場を失った私は、ゼミを

転々とする。

最後にたどり着いたゼミで、博士論文提出間際の約1年、その先生にも

また、教育者としてあるべき姿を淡々と示していただいた。

プロポーザルもパスし、口頭試問も秋に決まったその年の夏の晩、大学の

図書館の前で、私は、博論の提出を取りやめたい、と先生にうったえた。 細々と非常勤の仕事を続けてはいたが、仕事をすれば論文が書けない、論文 を書けば生活ができないというジレンマのなか、いったん仕上がった論文を、 最終提出を目前にし、徹底的に推敲する気力は衰えていた。

学際的な領域にいたので、最初のゼミの先生と最後のゼミの先生は、専門

分野も異なり、ことばを交わすこともなかったと思う。

にもかかわらず、その先生は、やはり、新しいことをやろうとしいている

のだから、絶対に提出せねばならない、生活費なら貸せるとおっしゃった

のである。

元々、分野の異なるそのゼミには、仮に置いてもらっている身。

恐縮至極で、結局、お気持ちだけいただき、経済的な面は何とかやりくり

した。

しかし、普段は、生真面目な先生が、いたずらっぽくおっしゃったその時

のおことばは、今でも忘れられない。

「実は、うちのゼミの〇〇君にも、お金を貸しているんだ。

“ブラック金融だよ~。気をつけてね”って」。


       撮影・鳴神響一

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