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誰のために 何のために
数年前、保守政党の女性議員が、性的マイノリティの
人々を指し「生産性がない」と発言したことで批判を
浴びた。
大昔、人権の概念が存在しなかった頃ならいざしらず、
どれだけ時代にそぐわない表現かと、受け流すのは簡単
だが、そこには単純ではない事情が潜んでいる。
つまり、本心で言っているのでなく、ある層の「ウケ」を
狙っての発言だとすでに看破されているのだが、この
ようなことばの使い方を続ければ、自己欺瞞も習い性に
なってしまうのだろう。
さて、資本主義と加速主義の極まった今日において、
効率や収益と直接つながる「生産性」は、ビジネスを
おこなう者にとって一大事といえる。
一方で、研究においても同様なことがいえるだろうか?
私自身、このような話題で研究者仲間と話し合ったこと
はなかったが、話し合うまでもなく(たとえ専門分野
を違えていても)、おそらくは同じ答えが導き出される
だろう――。
ふとしたきっかけで、ある学会の巻頭言に寄せられた
「私たちは、誰の、何のために研究するのか?」と
題された文章を読んだ。
そこに書かれていた
「本来研究者は自らの興味にひかれるまま研究に夢中に
なるのだと思います。自分の研究したものを同じ志を
持った仲間と共有したいから,なにがしか社会の役に
立ちたいと考えるから研究を続けるのです。
決して掲げられた成果指標や 数値目標を達成するため
ではありません」という部分には共感をした。
たとえば、過去にノーベル賞を受賞した日本人研究者も
異口同音に、何より知的好奇心に導かれて研究を続け、
結果として栄誉ある賞を手にしたのだと、みずから
語っている。
つまり、成果指標で表される一つのゴールに向かい、
生産性を最重要視しているわけではないのだ。
むしろオリジナリティの高い研究は、近道をして
早急に完成することなどなく、疑問を手放さず、迷い、
迂回し、対話を重ねて一歩一歩進んでいく先にある。
そう。すぐに結果の出る一人の「手柄」のようなもの
でなく、意義ある時間を費やした研究は、結果として
他者のため、社会のために捧げられるだろう。
