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転換期を生きた若者たち

コロナの感染者が減少し、緊急事態宣言が解除されて初の週末。

街は、ひさしぶりに明るい空気に包まれているようだ。


まだまだ油断は禁物ながら、現在が、「アフターコロナ」に移行

する時期ならば、コロナ前に比べ、すでに変わった事象と

これからさらに変わっていく事象があると考えられる。


その意味で、現在は、過渡期といえるかもしれない。

日々のニュースや、周りの声を聞くにつれ、個々人の生き方が、

あらたに問い直されていると感じる。


この過渡期よりも、変化のはげしい時期に、転換期がある。


私が、研究の対象を近代に定めているのは、現在から最も近い

過去の歴史的転換期が、その時代にあたるからである。


いわば、ひとつの文化が、強大な文明の衝撃を受けるなか、

日本において近代化を担った主たる層に、近世の身分制度で

実質的に最上位を占めた武士が存在した。


西洋が、時間をかけ、着実に開化していった文明なるものを、

早急に摂取し、消化せねばならない。

圧縮された近代化は、当然、矛盾をはらんだ。



林竹二氏が、『明治的人間』の中で指摘するごとく、それは

宿命的に、あたらしい時代が濃厚に温存した前近代的なもの

へと、正面から切り込んでいく闘いでもあった。


『長州ファイブ』は、2006年に、明治維新の中核を担った

「薩長土肥(さっちょうどひ)」のうちの長州、政治家を多く

輩出した山口県でつくられた映画。



幕末に、藩命を受け、密航のかたちでイギリスに留学した5人の若者、

井上馨・井上勝・伊藤博文・遠藤謹助・山尾庸三の若き日を描いた

物語である。


特に、伊藤のように知名度の高くない山尾(イギリスで造船の技術を

学び、東大工学部の前身をつくる)に、フォーカスを当てている点が

印象的だ。


以前、ナタリー・デーヴィス氏の『境界を生きた女たち』に触れたが、

あの翻訳の見事さは、 境界 「に」ではなく、 境界 「を」とした

ところにある。


タイトルにおける一文字の助詞の違いで、女性たちの軌跡が、生き生き

と能動的に描出されることに感動した。


たったひとりで、大状況を、一挙に変えることはむずかしい。

そうであっても、与えられた時間「に」、しかたなく生きるのでなく、

当該の時間「を」、積極的に生きていけたらと切に願う。

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