今日で、5月が終わります。
わずか一か月ほどの間、私たちは、以前の日常生活が取り
戻されるのではないか、と日ごと期待を募らせ、実際に、
有事における宣言は解除されることとなりました。
しかし、危機は、通り雨のごとく、私たちの頭上を通過した
のではありません。
ささやかな日常が、かけがえのないものに思える一方で、
「大気」が人間を、自然に生かしてくれると感じられた素朴な
時代は、はるか遠くになりました。
ただし、今回のパンデミックにあり、総じてひとびとの行動は、
冷静だったといえるのではないでしょうか。
以前、ブログで触れたペーター・スローターダイクの『空震』
を、今朝、読み返していました。
表現には、慎重にならざるをえませんが、世界を巻き込んだ
ウィルスとの闘いは、疑似戦争の様相を呈していたからです。
近代の世界戦の教訓によれば、災禍の一因に、大衆の意識の
「朦朧状態(もうろうじょうたい)」が、指摘されています。
スローターダイクは、それを、以下のように分析します。
「朦朧状態というのは、人間たちが正常=規範的なもの
(das Normale)に囚われたトランスの中で単なる“トレンド
を追う者”として運動することを指す」。
規範とは何か?
それは、自明のごとく存在する不変のものではなく、時々に
解体され、構築されていくものなのでしょう。
たとえば、日本語で、「ぶれない」というのは、ひとに対し
もちいられる肯定的な評価。
面と向かっていうよりは、当人のいないところで、「あのひと、
本当にぶれてないですよね」などと形容します。
周囲に対しては、誠実に配慮しながらも、自分自身の軸足を
決めたら、ぶれずに! 粛々(しゅくしゅく)と、なすべき
ことをおこないたいものです。
初夏のふ頭
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