今年の秋は、例年よりずいぶん暖かい。
エアコンを使っていないのに、事務所の温度計は16℃を
示していて、オンラインで授業を受けている韓国在住の
学習者の方に言ったら、「こちらは2℃です」と驚かれた。
昨年の今頃は、晩秋らしい底冷えのする日が続き、毎日
事務所に遊びに来ていた野良猫が、帰りたがらなくなった
のを哀れに思い、保護したのだった。
さて、「読書の秋」とはよく言ったもので、同じ気温でも、
暖かい春より涼しいこの季節のほうが、本の内容が頭に
入りやすい。
勉強の秋とは言わないものの、物事を突き詰めて考える
のには、最適な季節である。
以前に書いた内容と重なるかもしれないが、おおまかに
分けて、己の読書は二種類からなる(学びをおこなう人には
一般的だろうが)。
つまり、専門に直接関わる読書と、隣接する分野や少し
隔たった分野の主として教養を身につけるための読書。
一番目は、なくては話にならないが、二番目も、
パースペクティブを広げ、知のリファレンスを多くし、
直観を養うという意味では欠かせない。
ブログをはじめてから、トピックを取り上げるにあたり、
学生時代に読んだ本を再読することがあった。
懐かしいなと思ったり、やはりこの論は外せないと納得
したり、新しい発見があったり・・・
ひとりで盛り上がる(?)。
そのような流れで、最近、二番目の種類の読書である
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』を、再び手に
取った。
文章に、少し目を走らせただけで、行間から立ち上がる
思想の量感に圧倒される。
紙の平面に書かれているのに、立体的な空間世界が感じられ、
そのなかを行き来しつつ、文章を反芻する。
この論考には、「遊歩者(ゆうほしゃ;フラヌール)」という
ことばが出てくるが、あたかもそれと化したかのように。
コロナが発生してから、遠出をする機会が、めっきり減った
一方で、生活圏である場を歩く機会は増えた。
図書館へ行ったり、買い物をしたり、といった目的を伴うこと
もあるが、基本的には、歩くという行為そのものを無意識に
求めている。
別に、遊歩者を気取っているわけではないが、静態的にものを
見るだけでなく、そうして動態的にものを見ることは、思考の
養分になると感じられるから。
ぼんやり風景を見ていても、頻繁に訪れる街の変化は、目に飛び
込んでくる。
それで、気づけば「風景を」見るというより、自然に読み解いて
いるようだ。
何が変わったのか? その背後には何があるのか?
これとそれは、いかに結びついているのか?
今日も、諸事に追われながら、日が暮れていく。
膝の上で熟睡する猫には、気の毒だが、1日が終わらぬうち、
歩きに出るとしよう。
パサージュは、19世紀前半のパリにつくられた
アーケード街。
織物取引の隆盛にしたがい、パサージュには
百貨店の前身となる最先端の店が出現する。
現実感を伴わないような資本主義の幻想が投影
されると同時に、ユートピア的協働生活体の
可能性をも有したパサージュは、資本主義と
社会主義双方の夢を引き寄せる場であった。
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