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ある程(ほど)の・・・

春から夏にかけ咲く花は、太陽の下、とりどりに輝いて見えるが、

秋に咲く花は、見過ごしてしまうほど慎ましやかな佇まいのものが

多い。


それでも、ウィズコロナの日常にあり、行動範囲が狭まった反面、

身近な自然におのずと目が向くようになったためか、夜に小道を

歩いていると、白い花が闇に浮かび上がっているのに気づき、

ハッとさせられたりする。


日本で、代表的な秋の花といえば、やはり菊だろう。

風雅を解さない人間と思われるかもしれないが、個人的にこの花から

浮かぶのは二つのイメージだ。


すなわち、国花としての菊と仏花としての菊。

前者は、皇室の紋章となっており、後者は、仏壇や墓前に供えられる。


このような理由からも、正直、ストレートに好きといいたくなるような

花ではない。


にもかかわらず、この季節になり、菊の花を目にすると思い出す鮮烈な

俳句がある。


「ある程の菊投げ入れよ棺の中」


今からちょうど111年前、1910年11月9日、急逝した大塚楠緒子(おおつか

くすおこ)に、夏目漱石(なつめそうせき)は、この句を捧げた。


高等教育を受けられる女性が、圧倒的に少数だった時代、女性として

最高の学歴を有し、外国文学の翻訳や小説の発表をおこなった彼女は、

漱石の友人の妻であった。


一説によると、彼は、楠緒子にひめやかな想いを寄せていたともいわれて

いる。


漱石の小説に登場する女性は、『三四郎』の美禰子(みねこ)しかり、

『草枕』の那美(なみ)しかり、知的で、他人の意見にはなびかない

意思と行動力の持ち主でありながら、どこか悲劇的な影を引いている。


“ある程(ほど)の”は、古語的な表現で、“あるだけ全部の”、

“ありったけの”の意味。

ただし、“あるだけ全部の”では、散文的すぎるし、“ありったけの”

では、直情的すぎる。


“ある程の”からは、抑制を利かせつつも、そこにこめられた想いの深さ

がうかがえる。


そして、菊を、そっと“添える”のでなく、“投げ入れる”という行為には、

“ある程の”と反対に、抑制しようとしてもしきれない衝動が、ひそんで

いるようだ。


それも、自身が投げ入れるのみならず、誰に対してかは定かならぬまま、

投げ入れるのだ! と、命じている。


だが、棺の中で、何も応えない故人は冷たく横たわっている。

不意に訪れた永遠(とわ)の別れ―

わずか17文字に託されたのは、漱石の声にならない慟哭(どうこく)であった

だろう。


2021.11.7

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