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エンパシーの重み

今日は、夕方から夜にかけ授業が続き、終わったのが

午後10時40分。

外国人学習者の方たちから、今回の元首相襲撃事件に

ついて、あれこれ質問を受けたので、自分なりに思う ところを述べた。


先日のブログでは、「テロル」という表現をもちいたが、

それは妥当でなかったと反省している。


なぜなら犯人とされる人物は、イデオロギー的な不満を、

政治家に対して持っていたわけではないからだ。


現在の日本は、平和ボケなどと形容されることもあるが、

戦後には、若者が、私的な生活を後回しにし、公的な

社会において異議申し立てをおこなった時代もあった。



そのような時代の空気を、直接には知らないが、ささやか

な日常よりも「大義」に生きるというのは、その大義の

内容にもよるが、スケールがあるようには思われる。


だが、大義を謳いながら、冷静ではなく情念的というか

彼らが、英雄意識に酔っているようにも見え、正直、

拒絶感をおぼえもした。


今回の事件の直後は、対象が国家のトップに位置する

人間であったことや、もちいられた方法から、最初は

被害者のほうに同情が集まったが、事件の経緯が判明

するつれ、加害者に対するエンパシーがひたひたと

押し寄せている。


コメントの中で、目立ったのは「行為自体は許容すべき

でないが、犯人の置かれた境遇を思うと〝悲しい〟」と

いうものだ。


現在41歳のその人物は、まさにロストジェネレーションに

属する世代。

不況期には職を失いやすく、賃金は低い傾向にありながら、

本人は優秀で、名門大学に進学したにもかかわらず、家庭

が破産し、非正規雇用の仕事を転々とすることになった。


父が早く死去したのち、母が新興宗教に有り金すべてを

つぎこんでしまったのだが、彼の虚無は、単に貧困そのもの

に起因するとは考えられない。

彼は、おそらく生きていることに、尊厳が感じられなかった

のではないか?


その間、社会的強者である大企業などを、さらに優先させ、

彼のような弱者を切り捨ててきた政治は、他者的な存在に

関心のかけらでも示しただろうか。


暴力自体、許されないことは、こどもでも知っているが、

可視的な暴力にのみ話題を集中させ、隠されてきた暴力から

目を逸らせてはならない。


それでも、一般の中の少なくない人が、一面識もない人間

の声にならない叫びに共感できるのなら、現状は、絶望的

ではないのだろう。


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