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「懐疑」する姿勢

だいぶ前に、「出藍(しゅつらん)」というタイトルで、記事を

書いたことがある。

学生の優越を素直に認められる師は、彼(彼女)自身、すぐれた

人物であるという内容だったと記憶している。


たとえば、相手が誰であっても、自説を否定されたら、よほど修行

を積んでいない限り、穏やかな気持ちではいられないだろう。

その上、論争を挑んできた相手が、後進の者であるならなおさらだ。


しかし、研究は、それ自体「懐疑」する態度を基に置かねばならない

ものなのである。

大学院生ともなれば、先生のことばが「絶対」などという態度では、

研究者として芽も出ない。

いったんは、当該のことばを受け止めつつも、異なる見方はないか?

と懐疑してみるのが、ただしいあり方といえる。


ただし、否定や反論は、肯定や賞賛よりも、当然気をつかわねば

ならない。

それゆえ、礼儀を尽くしながら、あくまでも冷静に、しかし中立的

な態度でいうべきことはいわねばならないのだ。


『ミル宛書簡』を著したリチャード・ベントレーは、尊敬する人物

エドワード・バーナードが、同書の修正を促した際、丁重でありつつ

きっぱりと、それを拒絶したと伝えられる。

ただし、両者の交わした書簡は、荘重で詳細にわたりつねに礼節を

欠かしていなかったので「今でも多くの若手論客に有益だ」とされる。


対象化のためのリファレンスを増やせば、「研究」の名でおこなわれ

ているものが、真にそれに値するものなのか否かは、見極めがついてくる。

遺憾ではあるが、学界の権威に追従し、言説を再生産してしまうなど

という行為は、さほどめずらしくはない。


上述した内容と反するようだが、最初から、好き勝手に自説を作り

上げることなどは不可能だから、まずは、師に導かれ、そのことばを

参照することから入る。


だが、どこかできっと、独り立ちしなければならないときが訪れる。

当該の地点に到達したとき、信じられるのは、最終的に自分自身となる。

その上で、どこまでも自説を検分し、見極めをおこなうべきだ。


大家でも、思い込みや誤りはままあるので、間違うことは恥などでは

ない。


思考の過程を単純化しすぎないこと。今、目にしているものの奥に、

まだ何かがあるのではないかと疑うこと。

そのような場にこそ、むしろ研究の醍醐味があるといえるだろう。








 「空也上人(くうやしょうにん)と   六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)」展、 東京国立博物館で開かれていたのですね・・・ 今日までとは知らず(涙)。

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