日本語空間

2020年5月21日

芸術作品ではないが/芸術作品ではないからこそ

最終更新: 2020年8月1日

たとえば、前衛的な画家なら、まるでオートマティズム(Automatism)の

ようにして、一気に描き上げた絵を、手直しすることはない。

あるいは、バンドのミュージシャンが、一発録(いっぱつど)りをして、

編集しない音源を、あえてリリースすることもある。

理由は、その勢(いきお)いだったり、初期衝動(しょきしょうどう)

だったり、「型にはまっていない」何かが、「貴(とうと)い」と考えるから。

一方で、昨日の最後にお話しした「推敲(すいこう)」の故事のように、

詩人や小説家が、何度も文章を練り直して、作品の完成度を上げていくのは、

古今東西(ここんとうざい)の習いである。

上述したのは、いわゆる芸術作品を創造する過程です。

翻(ひるがえ)って考えれば、論述に、入念な推敲が必要なことが、よく

理解されるでしょう。

つまり、いったん書き上げた文章を、ろくに見直すこともなく提出するなどは、

外側からは「勢い」のような行為に映ります。

一方で、時間をかけて文章を練り上げていくことは、基本的に重要ですが、

論述に求められているのは、華麗なレトリックではありません。

換言すれば、文章表現には、「内容」に見合った、「内容」を活かす形式が

存在するということです。

文理の専門を問わず、論理的一貫性は無論、文章が端正であること、格調がある

ことも、当然、評価に加味されます。

特に皆さんは、日本語という外国語で綴るのですから、自分自身が完成させた

文章には、思い入れもひとしおではないでしょうか。

その文章を、よりよく見せるために、推敲の量と質は、無視できないものなのです。

Lindenmeier, L-System

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