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無常ということ

夏になると、近くの川に、くらげが列をなし漂っていくのを見かける。


その姿を目にするたび、なぜか、鴨長明かものちょうめい(1155-1216)

の著(あらわ)した『方丈記』冒頭の文が、頭に浮かぶ。


行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。


(流れいく川の水は、絶え間なく、元の水のままではない。

水面の淀みに浮かぶ泡は、消えてはすぐにまた形を成し、長い間そこに

とどまることはない)


この随筆のキーワードに「無常観(むじょうかん)」がある。


長明が生きた時代は、度重なる自然災害や疫病の発生が、人々を苦しめた。

また、貴族の公家(くげ)に代わり、武家である平氏が台頭したが、長明は、

その武士たちが、ほどなく衰亡する姿も予測していたようだ。


彼自身、神官の家に生まれながら、出世の道を閉ざされ、ついには質素な

庵(いおり)に隠遁(いんとん)し、そこで、この随筆をしたためたのだった。


日本にも、古代から、海外に通じる路は開かれていたとはいえ、多くの人

はー身分が高かろうとー、この狭い島国の内で一生を終えた。


そのようなこともあり、移ろいやすい世の中で、運命に抗わないことを

むしろ潔しとする美学は、閉ざされた空間の中での生を、昇華させる装置

であったのかもしれない。


透明で重さを感じさせず、大きさ以外には個体差のわからないくらげが、

静かに川を進んでいくさまは、浮世離れしているようでもある。


しかし、それを移ろう不確かなものとしてではなく、確かな手ごたえをもつ

命が「循環する」さまであると、800年後の今日、読み替えたく思うのだ。




























   2020.6.14

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