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  • 日本語空間

「厚い」記述を

危険な真夏日が続き、屋外での行動が制限される中、クーラー

をつけた室内で論文の構想をおこなうのは、何ともぜいたくな

ことと、一抹の罪悪感をおぼえる。

異常気象の原因そのものが、環境に負担をかける文明的生活で

あるのだから、せめて設定温度を高めにしたり、冷やした紅茶

を飲んだりして、小さな配慮をおこなう。


さて、「あつい」とだけひらがなで書くと、暑いのか熱いのか、

厚いのか区別がつかない。

※前二つと後一つは高低アクセントが異なる(中高型と平板型)。


今日は、後者の「厚い」方のお話。


「論文」と称されるものを読んでいて、知的なダイナミズムの

感じられる場合とそうでない場合がある。

平たくいえば、引き込まれるような興奮をおぼえるか、退屈で

あるか、の違いが存在するとも。


原因は、複合的なものであるのだろうが、その一つに記述の

厚みが考えられる。


文化人類学者のクリフォード・ギアツは、それを「厚い記述」、

「薄い記述」と命名した。

ある事象について書く際、文脈が変われば意味も変わってくる

ので、文脈を書き込まずに平板な「説明」だけをおこなっても、

理解は不可能だ。


換言すれば、その事象についてだけ書くのか、周辺に在るもの

も含めて関連性にまで言及するのかということ。


研究者の中にも、この点を意識している者としていない者が

いる。

かくも大切なことが、意外にも話題に上らないのは、厚い記述

にかかる労力や時間を避けて素知らぬ顔をしたいことの表れか?


しかし、このような大状況であるからこそ、厚い記述が高い評価を

得ることは約束されている。

ただし、査読者が公平で、知的に誠実であるなら。


学術論文は、量でなく質が命だ。

大量生産、大量廃棄の時代であるからこそ、知的な営みに労力は

喜んでかけねばならないだろう。

シルスマリア(スイス)のニーチェハウス

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