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「見えるもの、その先に・・・」

大学院に入る前は、美術作品の抽象表現に、特別惹かれる

ことはなかった。

おそらくは無意識に、あらかじめカテゴライズされた形式

のなかで、硬直した捉え方をしていたせいと考えられる。


ちなみに、私の専攻は美術や芸術ではない。

だが、近代における科学史と芸術史の交わる地点には、

関心を抱き続けている。


今週の月曜日、数年ぶりに映画館へ足を運び、

『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』

を観た。

彼女の名前を知ったのは、3年ほど前に岡崎乾二郎著『抽象

の力 近代芸術の解析』を読んだことによる。


書中では、 主としてマイナーな作家が取り上げられており、

リファレンスを増やせたのはありがたかったが、特にヒルマ・

アフ・クリントの作品は、目を引いた。


抽象も、無機的な冷たい表現、混濁した暗い表現などさまざま

だが、彼女のそれは、不定形であると同時に明晰さと軽快さ、

さらには生命の躍動を感じさせるものだったのである。


1862年(日本はまだ江戸時代)、スウェーデンで、代々、

海図作成を生業とする貴族の家に生まれたアフ・クリントは、

海軍士官の父から、数学、天文学、航海術などを教えられた。


そうして、王立美術学院で正式な教育を受けた第二世代に

当たる彼女は、絵画の方面で才能を発揮し、最初は人物や風景、

学術書の挿絵などを描き、その収入により、経済的に自立

できるまでになった。


だがやがて、近代の知識人に顕著な「人類の共同精神」を追求

したいという望みが、オートマティスムを試みさせ、抽象表現

へと移行していく。

確信に満たされた彼女は言った。 (作家たる私が主体的に描いたのでなく)、「大きな力が私を 通して絵を描いた」のだと。


《美術史》には、1910年代に、偉大な男性作家たちが抽象絵画を

創出したと記述されている。

しかし、1900年代、すでに無名の女性作家が抽象表現をおこなって

いたことが「発見された」。


だが、これは、氷山の一角に過ぎないのではないか?


彼女より17年遅れて誕生したアインシュタインが、「光量子仮説」

を発表するのは、1905年。

アフ・クリントが、作品を発表しはじめるのも、同時期で、両者

の間には知的な共振がみとめられる。


彼女は、生涯にわたり膨大なメモを記し続けたが、「私は原子であり

世界だ」というようなことばは、まさに近代科学と芸術の精神が

交わる地点に身を置いた人間ならではのものだろう。


そう、「見える部分はわずか」なのだ。

近代からの問いかけに、われわれは何をなすべきか?




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