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ことばの身体性

どのような人間も、生まれ育った環境とは

無縁ではない。


なぜこのようなことを書いたかというと、

現在、大学や大学院の教員に完全な

デジタル世代がほぼ存在しないということ

を、よく考えるからだ。


単純に、アナログが時代遅れでデジタルが

すべてにおいて優れているなどとはいえず、

どちらの世代に足をかけるかにより「感性」

にも当然違いが生じるだろう。


すでに定年退職した私の師が、学生時代

に書いた修士論文を、最近読ませてもらう

機会に恵まれた。


そこに綴られていたのは、淡いブルーの

万年筆で書いたことが一目でわかる

流れるような「縦書き」の文章だった。


短い時間だったので、さわりの部分しか

目を通せなかったが、筆力は圧巻で、

筆者の息づかいが聞こえるようなことば

の群れだった。


そのように「玲瓏(れいろう)」とも形容

しうる一方で、徹底的に論理を詰めていく

スタイルの文章は、ある時代に存在して

これから廃れていくものなのだろうか?


あえて端的にいうなら、アナログの利点が

生きた身体性をつよく感じさせることば…


それでは、アナログ的な感性を保ちつつ、

今日性も失わずに在るのは、どのような

行き方だろう?


夢の中でのように、師を見送った6月も

きょうで終わる。

今年も、はや半分が過ぎた。

過去から聞こえてくる師の声は、己に

不羈独立たれ! と言っているようだ。





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