今では当然のように受容されているシステムの中にも、
登場当時は、賛否両論を生んだものがあった。
最初は警戒心を抱いたとしても、利便性が優先される
うち、それなしではいられなくなる。
ChatGPTが注目を集めるこの日頃、東京大学の副学長
が、すでにわれわれは「ルビコン川を渡ってしまった」
のかもしれないと、HPに注意を喚起する文章を書いて
話題を呼んだ。
対照的にマルクス・ガブリエルは、 ChatGPTを「落書き」
と形容した。
つまり、ターゲットシステムとモデルのようなものだと。
このクールな突き放し方のほうが、より共感しやすい。
AIは自律した知性ではないのだから、そのように語るべき
ではなく、AIが知能をモデル化することで、私たちの
思考プロセスに干渉しているかを議論すべきなのだ。
デジタル環境にどっぷり浸かっていると、人間に備わった
有機的な感覚が麻痺してくるようにも思われる。
デジタルを駆使しているようでいて、どこかに劣化(退化)
が生じているなら、そのような慣性は戒めたい。
デジタルに限ったことではなく、要は、対象との距離を
いかに図るかなのだろう。
※「ルビコン川を渡る」ユリウス・カエサルが大軍を率いて
この川を渡った故事にちなむ。
もう後には引き返せないという意味。