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先生方の人間味(にんげんみ)

学生時代を振り返ると、大学生の時までは、先生方との関係も

薄く、私は、集団のなかに埋もれた存在だった。

良い記憶も悪い記憶もあまりなく、淡々と、課されることに

従っていた気がする。


しかし、大学院に入ってからは、当然ながら学生数が少ない上、

ゼミでの活動が主となるため、先生方との関係が密になった。


そうして、外側では冷静にふるまっていても、内側では激しい

ものの渦巻く怒涛(どとう)の季節が、ふいに訪れる。


以前にも書いたが、テーマが合う教員がおらず、ゼミを転々と

した私は、博士課程の最後期に、テーマは異なるが、扱う時代

が重なる先生のゼミに入れていただいた。


まずは、ゼミに入れていただけるか打診に伺った時、先生は

「ほかにいい先生がいっぱいいるじゃないですか」などと

はぐらかすようなことをおっしゃった。


そこで私は、大胆にも「先生が、学生を指導する上で、心がけ

ていらっしゃることは何ですか」と質問をさせていただいた。


先生のお答えは、学生の考えを尊重し、強制して捻じ曲げること

をしない、だったと記憶している。


新規性に賭けていた私にとって、保守的すぎる先生は合わないと

理解していたので、わが意を得たり!と、喜んだ。


しかし、2度目の面談で、以前に査読を通った何本かの論文と、

博論の概要をお見せしたところ、ダンディーなその先生は、

涼しい表情で薄笑みさえ浮かべ、言い切られたのである。


「あなたは、私たち(先生が属する専門分野の研究者たち)に、

喧嘩を売っているわけですね」。


冷や汗が出た。

たしかに、私が用いていた理論は、根本的な部分で、先生が準拠

されていたアプローチの妥当性を問うていたから。


ただし、最終的にそれを問うことが目標ではなく、主要な眼目は

他にあったが、出発点にそれを据えることは避けられなかった。


私は、その場では、特に何も答えなかった。

先生は、同じようなことを二度とおっしゃらず、議論を挑まれる

こともなかった。


博論をいったん完成させながら、徹底的に推敲したら、気が遠く

なるような年数がかかると想像し、退学を申し入れた時に、断固

として許してくださらなかったのも、その先生だ。


先生は、完成度は「もう充分だ」と、goサインを出してくださった。

その時、しみじみおっしゃったのが「成績が良くても、こういう風

には書けないんだよ」のことばである。


赤面するしかなかった。

私は、大学までは、必死に勉強したとはいえず、成績も最上位では

なかったから。


ただ、先生方にも負けないつもりで、膨大な読書に挑むことで、

「知」の構築を試みていたが、ベテランの先生には、来し方を見透か

されていかのかもしれない。


時効には、まだ早すぎるが、あえて明かそう。


長い時間、博士論文の執筆に憑かれたようになり、もはやどの時点が

完成か判断がつかなくなっていた私は、先生に対し、教授会の審査を

通らなかったらどうするのか? などと弱気なことばを吐いた。


すると先生は、またもや涼しい表情で「私が通します」とおっしゃった

のである。


















ヨハネス・フェルメール『音楽の稽古』(1662-64)

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