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清冽(せいれつ)な記憶

「去る者は日々に疎し」などというけれど、大学院時代に出会った

人々の思い出は、時間が経つにつれ、一層鮮明によみがえってくる。

それだけ人生のうちで得難い経験をしたという証なのかもしれない。

 

大学までの「勉強」は、いわば横並びで、集団でおこなわれる。

それに対し、大学院での「研究」は、「自立」があらかじめ前提と

されており、「独学」が基本といえる。

 

つまり、手取り足取り、教員に教えてもらうのでなく、基本的には

自分自身で問題を設定して、さまざまな角度からそれに分析を加え、

解いていかねばならない。

徹底的に調べ、考えてもわからないことがあれば、教員に質問を

するのが作法(さほう)である。

 

そもそもボトムアップ形式で、漫然と何かをまとめていくようでは、

どの「研究」も成り立たない。

そして、相当時間をかけても、随所に壁が立ちはだかり、想像した

ようには進まないのがふつうだ。

 

デジタル全盛時代に、人間は意識的無意識的に簡便な行き方を求める。

無論、時間を省略して問題ない箇所もあるが、研究には「迂回」を

厭わない姿勢が欠かせない。

 

院生もそれぞれとはいえ、研究生活の日々に占めるのは、苦悩が9割

といったところではないだろうか。

だが、そのように、ああでもないこうでもないと自問自答しながら、

最適解にたどりついた者には無上のよろこびが訪れる。

 

博士論文完成間近で、連日寮の自室に閉じこもっていたある日の午後、

救急車のサイレンが鳴り響いたかと思うと、廊下をバタバタ走る足音

が聞こえ、ドアを開けると管理人さんが走ってくるのが見えた。

 

何と同じフロアの学生が、急に倒れて、搬送されたのであった。

 

後日、廊下でその学生に会って話を聞くと、修士課程修了間近で課題が

山積しており、飲まず食わずの上、睡眠時間を極端に削る生活をして

いたとのことだった。

「やっぱり寝ないと無理ですね」などと、遠い目で淡々と語った相手は、

凄烈(せいれつ)とも清冽(せいれつ)とも形容しうるアウラに包まれて

いるようだった――

 

会話を交わしたのはわずか数回で、名前すらおぼえていないその学生

の姿が、今でもなぜか親しく感じられる。





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