引き続き、コロナ禍により留学生が入国すらできない状態のなか、
「日本語空間」も、学習者の数は多くないものの、皆さん、着実
に目標へと向かい進歩を続けているので、私自身、気持ちを引き
締め常に体制を整えている。
塾や予備校と異なる点は、単に合格を目指すのでなく、その先に
つながる指導を心がけていること。
中でも、修士課程に入る前から、博士課程に進み学位を取ることを
目指している人には、息の長い研究生活をおこなうためのアドバイス
をする。
もう時効かと思うので話すが、過去に日本語教師をしていたころ、 より良い授業のため、自主的に時間をかけ教材など作っていたら、 教務主任から「そんなに頑張らなくていい」といわれ、ポカンとして しまった。
なぜ? の問いが心に浮かんだが、「そんなに頑張ったら、他の
先生方も頑張らなきゃならないから」といわれ、自分のなかにあった
熱がサーッと引いていった。
追い打ちをかけるようにいわれたのは、忘れもしない「それはぜいたく
なやり方です」ということば。
砂をかむような思いと割り切れなさは残ったが、冷静になって考えれば、
余裕なく集団で回していく場では、学生にとってたとえそれがプラスで
あっても、「異なり」は切り捨て、すべてを均等にならしていくことが
習い性となっているのだろう。
マジョリティがそうであるなら、時間をかけて体制を変えようとするので
なく、身を離し、小さい単位で理想を追求すればよいとの結論に至った。
そのときは、何となく孤立しているような心地がしたが、時間が流れ、
社会に多様性が受け入れられるようになってきてから、立場や環境こそ
違え、あえて組織から離れ理想を追求するひとが増えてきたようだ。
大きな集団からなる機関は、それだけ安定しているが、何かを一つ決める にも時間がかかり、動きが鈍くなりがちだ。 一方、小さい単位の機関は、身軽な分、柔軟な動きを取れる。
大学までの入学や進学、単位認定に関わるテストが〇×や選択方式なのは、
評価が数字に換算しやすく客観的だからで、それに対応する授業も、基本的に
クラス単位からなる大人数のものだ。
だが、「勉強」から「研究」に進む大学院の課程では、少数精鋭のゼミ方式
に移る。
そうであれば、入学試験に備えるにも、「やっつけ」的なクラスレッスンは
有効でない。
現在、私がおこなっている大学院の入試対策では、練りに練って完成度を
上げている。
個人授業の濃密な時間が流れていく。
そう、「ぜいたくなやり方」で上等!
「他人は他人、自分は自分」と達観し、わが道をひた走る学習者の方と対峙して、
少数精鋭でいこう!!
白川郷(岐阜県)