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雪の食べ物

今週の木曜日、この冬初めての雪が降った。

風を伴い、終日降り続けたが、翌日には太陽が顔を見せ、

積もった雪はあっけなく消えてしまった――


コロナ発生以降、空気が澄み、見上げる空も、雲が目に

しみるほど鮮やかに美しい。

近隣で、野生のたぬきやハクビシンを見かけたのも、

そういえばコロナ以降のことだ。


産業が滞ったためか? 単に気のせいか? 

最初わからなかったが、学術的に、この事象が証明されて

いると知り、得心がいった。


ポストヒューマンと雪について、思いを巡らせているうち、

宮沢賢治(1896-1933)の詩「永訣の朝」が頭に浮かんだ。

同じ作者の「アメニモマケズ(雨にも負けず)」とともに、

国語の教科書に取り上げられる機会の多い詩である。


宮沢賢治は、岩手県に生まれ、幼少時から植物や鉱物に関心を

持ち、仏教信仰の気圏で生育した。

文芸にも親しみ、『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』など、

宇宙や自然に対する独自の視点を反映させた童話を書く一方で、

地元の青年たちの指導者となり、よろこびをもって農業に従事する。

生涯、独身であり、菜食主義者であった。


「永訣の朝」は、結核のため、病床についた妹に向けた詩。

“今日のうちに 遠くへ行ってしまう わたくしの妹よ”

という印象的な書き出しではじまる。


彼女は、高熱にうなされながら、最後の願いを口にした。

“あめゆじゅ とてちて けんじゃ(雨雪を取ってきてください)”

きょうだい仲のいちばんよかった妹は、兄を“一生 明るくする

ため”雪の一碗を頼んだのだと、彼はすみやかに理解する。


20世紀初頭にはぐくまれた理想主義の体現者であった賢治は、

人間中心の世界に異を唱え、自身に厳しくありながら、妥協を

許さぬ性格でもあったので、周囲との小さい衝突が絶えなかった。


「永訣の朝」の結びには、そのような彼の思想がうかがえる。

妹にとって最後の食べ物である「雪」に、兄は祈りを捧げた。

どうかこれが、天上の食に変わり、“おまえと みんなとに聖い

資量をもたらすことを”と。


自然や、人間以外の存在へのまなざしに共感する賢治の文学の

愛好者は、今も多い。

だが、近代の理想主義者は、純度も高かった分、個の異なりを

受け入れることに寛容でなかったともいえる。


賢治自身、仏教を通じ、当該の宗教と国粋主義が結びついた

「国柱会」の活動に接近していく。

そうして、カタストロフへと傾斜していく全体主義の「果て」

にまみえず、彼は、37歳で亡くなった。

雪を食べ物と捉えられる想像力は、肉食の是非が問われる ポストヒューマンの時代には示唆があるが、より複雑化した 状況で、変わらぬ「利他」のむずかしさを思う。




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